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記憶素子

  • Writer: Ari Nakamura
    Ari Nakamura
  • Oct 7, 2017
  • 6 min read

Updated: Oct 11

-丸山隆と教え子たち-


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会期 2017年10月7日(土)〜2017年11月5日(日)

時間 10:00〜17:00 (入館は16:30まで)

会場 本郷新記念札幌彫刻美術館

観覧料 一般600円 65歳以上500円 高大生400円 中学生以下無料



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記憶素子展アーティストリレートーク・ステイトメント

‘Excavation-nostalgia7’ 慕情

110×100㎝ インスタレーション

(紙・塩・澱粉糊・アルミテープ・アクリル、トルソ原版は1987年の卒制’マグナマータ’/FRPより)

 

 今回の作品は、ライフテーマである「大地母神」から派生した、私の半世紀分の記憶である。ここでは私がどのような経緯を辿って、この展示に至ったのかを綴る。

 

1. 版画家/コンセプチュアルアートとしての側面

 

 版画がもっとも先端を走っていた時代に、私は版画の新しい概念を「一原有徳」から学んだ。この「記憶素子」展においては、過去の塑像作品を何層もフロッタージュすることで「発掘―記憶を含む今」も表そうと考えた。

コンセプトの構造的な事、視覚的な芸術性については、Facebookで知り合ったバリー・アッシュワース氏(フォトグラファー)のVailing –The erotic eye and the nudeの写真連作とそのノートから影響を受けた。


 異なる角度からの観察は、全く同じの感覚の範囲内でその物に対する私達の認識を変えることができる。とある花の視覚的な印象を花であると特定するには、一見するだけで十分だが、あなたがすべての側面から花を調べた時にのみ、「何が本当にあるか」という完全なイメージが確定される。私たちの脳は、最もわずかなヒントを持ってして自動的に蓄積された自らの経験を通し、足りない情報のギャップを埋め、全体の仮定的イメージを完成しているのだ。 


 "このなかに美しさのイメージがある。「何か」が存在するという幻想を呼び起こすためには、完全に感覚を研ぎ澄ませた上で、限られた数の慎重に選ばれたヒントがあれば十分だ。全体「的」として「何か」を描写しなくても(異媒体に翻訳しなくても)、最小限の情報を演出するだけで「意図される印象」は呼び起こすことができるのだ。”

(Vailing –The erotic eye and the nude/ Barry Ashworth導入部分より意訳)

*Vailing には、(ベールをした)目を伏せる-とともに「祝浄」の意味もある


 私は、彼の写真とエッセイから、知的な独特のアルゴリズムを感じた。そしてそれがストレートに作品になっているのに驚いた。

 

 「Vailing」のシリーズは、エロティックな親しみを土台にして、アガペーを現わしているようだ。ボディの美しいトリミングと薄いベールのボディに沿った滑らかな皺は、コンセプチャルアートとしてよりも自然な美しさと、「時間」を強調している。 それはまるで「貴重な昆虫標本に必要な温度と湿度を与える」というような感覚であった。

アッシュワーズ氏の写真と文章は、私にこのような感想をもたらせた。彼の作品は、彼は目的の通りに "最初の印象から、オブジェクトは、別の次元の何かを私に連想させた”のだ。

 

 さて、私は自作既存の「型/版」として、トルソのトリミングがVailingのシリーズのようにできるかどうか、塩と澱粉ペーストと和紙で作られた胴体のリメイクを用いて考えた。私のイメージの根底にあるのは、遺跡発掘された素朴なボディの破片だ。私は、出土する大きな甕(かめ)の破片のフォルムが好きだ。それは、強い形だけが残ることを現し、しかも、その形は、触れたくなるような頬ずりしたくなるような親しみを持っている。


 制作工程はVailingと違うが、その哲学は似ていると思った。発掘された時に付いてくる土のテクスチャーをイメージしながら、私は塩を使うことにした。

 

 コンセプトを深めていくことは、・・・「瞬発的な鋭い集中力」や「長い制作期間への持久力」となる。良い意味でも悪い意味でも作家は自動操縦になるからだ。

 

 現在の美術教育界の残念な面は「日本の不況」、「ネットアプリの多様化と隅々までの普及」によって【手を汚すことへの不便】【ゴミを出すことへの罪悪感】が強調されていることである。特にスマホを与えられた中高生が、手や紙を汚すことから始めるという美術工芸/基本の垣根(コスト・時間)を越えることが感覚として難しくなったと思う。


 ここで私は、教育界へのヒントとして、【重量が軽くオーガニックでローコスト】な「やろうと思えば、誰でも出来る」造作方法を提案しようと、この制作材料を 紙・塩・澱粉・アルミニュームテープに限定した。

また、まずは「第一印象」を解りやすくするために、一般的に親しみやすいとされている「形」(=トルソと三角)を構成モチーフにした。

 

2.制作現場

 

 30年前制作のトルソは、私のお気に入りである。この原形には、「隼人の盾」に似た渦巻き紋様が描かれている。当時、象徴主義に魅力を感じ、入れ墨や瘢痕分身を彫刻に取り入れたいと思っていた私は、丸山先生以外の当時の先生たちに非難された。「学生には文様などいらない。シンプルに形に挑むべき」とのことであった。そのとき丸山先生が、きっちりと私の「盾」になってくれたのが懐かしい。


 「何を説得材料としてフォルム(土台となる立体)と文様(意味・形状)の相乗効果を狙うのか。導入つまりコンセプトと細かい検証そのものも美術の柱となる。ただし、総合的な結果(完成作品)は、いかなる時も作家として最重要だ」

 

 さて、2017年6月から大学時代の色々なことを思い出したり、時には文章で記録したりしながら、毎日毎日そのトルソ上で手を動かしていた。テクスチャーのブツブツは、6層の紙に挟まれた塩澱粉糊が固まって生えた「塩の結晶」である。見え隠れする三角のモチーフはその連なりにおいて「社会性・関係性」を表現したいと思った。

 

 塑像は、粘土で作られ石膏で型をとった瞬間から、完成に向かうまで形がほんの少しずつシェイプされる。それには、「整理と表面張力の強化によって形自体が独自の引力を持つだろう」という浪漫がある。一方、この制作(張子フロッタージュ’Papier-mache-Frottage’)は、せっかく今【型として実存】する「トルソの引力」をほんのりほんのりと解散させていった。それらの緩んでいく輪郭は、解き放された「慕情」に思えた。―母の胎内で育ち、母から生まれた記憶。大切な胎には、海の色が映る。八百万の種の保存と命の循環を含ませたかった。―最終段階では、造形作家として輪郭を定めるべく目を見開き、時に耳をすませながらやっとたどり着いた7体目がこの作品となった。

 

3.表現者として

 

 「触ってもいい彫刻」ではなく「触りたくなるオブジェクト」になっただろうか。丸山先生は、しばしば「触ってもいい彫刻って素敵じゃないか!」と言っていた。その言葉は、30年前には斬新だった。昔、彫刻は拝まれるイメージが強く、基本的に触れられないものだったからである。彼の良き生徒として、私は「いいよと言う前に、誰かが触りたくなるような彫刻なら、もっと素敵じゃない」と思っていたものだ。(脆いので今回は触るのは禁止だが…)

 

 コンセプトがあり、沢山のデッサンや図面を引いてからの制作は、私にとって「綱渡り」であり、フラフラしながらも確実にゴールを目指しているはずだった。しかし、30年というあまりにも長い慕情の発掘は、いわば「玉のり」だった。不安定な玉から降りたのは、10月5日の搬入が終わった後。

私自身は、また発表という玉にのっている。玉の上でジャグリングをするだろう。ジャグリングのクラブは、観客の皆さまから頂くつもりだ。次作にむけて・・・

 

 最後に、バリー・アッシュワース氏のページを見る事をお勧めする。人間の社会概念の意味論的探索から「感じる素子」としての多次元に展開していく解釈が美しい写真とともに論じられている。そこには、昨今の社会時勢に左右されない「和」の精神が滲んでいると思ったからだ。

 

2017年10月17日

ナカムラアリ

Ⓒ2025 Ari Nakamura. 

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