Jewel Box
- woodcutari
- Jul 2, 2016
- 28 min read
Updated: 12 hours ago

目次
ねこのゴロ

いつからその猫がいて、いついなくなったのか知りませんが、幼稚園へ行っていたある日から、家にはゴロという名前の猫がいたことがあります。とってもきれいな白い猫で、ごろごろと喉を鳴らすので、ゴロちゃんという名前でした。餌も現代のようなキャットフードなんかはなく、私の記憶ではいわゆるネコマンマでもなかったようで、父がスープ皿にミルクを入れていたのが印象的です。ゴロは、いつも父に甘えてひざに乗ったり、肩に乗ったりしていました。ゴロは柔らかくて暖かくて可愛いので、私はいつも追いかけ回していました。父のところだったら呼ばれなくても行くのに、私がいくら呼んでも来ないし、つかまえに行くと逃げ回って、小さい私も入られないようなソファの下とか、棚の上にいってしまいます。
こんなにゴロが好きなのに、私は悲しくて泣いてしまいました。
そんな私を見て母が
「猫はしつこくされるのがきらいな動物だから、知らん顔しているといいよ。そうすれば、ゴロは寂しくなって自分からアリちゃんのところに来るよ。」
母の言ったことは本当でしょうか。
私はそれでも挑戦してみることにしました。なるべくぜんぜん知らん顔をして、ゴロのことを意識しながらも普通どおりお手伝いをしたり、お兄ちゃんと遊んだりしてみました。私にとっては長い長い道のりです。いつもなら絶対つかまえに飛び出していた距離まで、なんどもゴロは近寄ってきました。それを知りながらも知らん顔するのはつらいことです。何度さわっちゃおうかと思ったことでしょう。でも私はがんばりました。あんまりがんばったのでゴロのことを忘れたほどです。
母が食後のデサートにりんごをむいてくれることになり、私とお兄ちゃんは茶の間にお皿とフォークを運びました。母はりんごをむきながら順番に配っていきます。私は一番小さいので、一番先にりんごをもらえます。次がお兄ちゃんでその次が父、そして母です。真っ赤なりんごは、まんまるで「りんごつくりのジョニー」の絵本にでているのと同じです。いま思えばそれは「旭」リンゴだったようです。りんごの中にはむいていると、すこしぶつかって茶色になっているのもありました。他の人はみんな平気で食べていましたが、私は全部きれいにとってもらっていました。
おしゃべりをしながら楽しくりんごを食べているときです。ゴロのことはもうすっかり忘れているときです。ゴロはニャーと鳴きながら、なんと私のひざに乗ってきました。
なんていう幸福でしょう。やっぱり母の言うとおりです。
わたしはうれしくてうれしくて、でもそっとこわごわゴロをなぜてあげました。
すぐに逃げてしまわないように。。。。。
大満足で猫のことがひとつわかったような一日でした。
幸せの城

雪の降る季節が続き、私の家には、かわいい本物の赤ちゃんが来ました。赤ちゃんは、たいしてうるさく泣くこともなく、ころころと太っていてかわいいものです。
ベランダを開けると、どこまでも続く雪の原です。そんなある晴れた日曜日のことでしょうか。父が中心となってお兄ちゃんと私は庭の真ん中にお城を作ることにしました。母は、赤ちゃんがいるのでお家で留守番です。私たちは、いつもよりずっとしっかり着込んでボッコ手袋をはめ、長靴の中にズボンを押し込めて、家をでました。
リビングのベランダからお庭は丸見えだったので、時々母と赤ちゃんに合図を送りながら作業は、進みました。
お兄ちゃんと二人だけの雪遊びとは違って、土台から作る本格的なものでした。流れ作業でお城を作りますが、それがとても大きかったので初めは、何を作っているのかもよくわかりませんでした。私は、たいして役にたたなかったのでお城の飾りつけ用の雪玉を作ったりしました。とうとうお城ができました。
アーチ型の入口、かわいい窓には、雪玉の飾りがついています。見張り用の三角屋根の塔もできました。その時です。ベランダの窓がトントンいっていました。母がよんでいます。行ってみると母は、三角形の旗をいっぱいもっていました。父は、それを受け取るとお城の屋根にさしました。
「しあわせのしろ」三角の旗には、そう書いてありました。
私は、まだ字を読むことができませんでしたが母がそう読んでくれたことをはっきり覚えています。お城が完成するとちらちら雪が降ってきました。私たちも十分に遊んだのでお家へ帰ることにしました。
三時のおやつを食べながら茶の間の窓越しにみえるお城は、とても立派にみえました。私たち兄弟の誇りになりました。父が王様、母がお妃様、お兄ちゃんが王子様で私と赤ちゃんは、お姫様です。両親は、インスタントコーヒーを飲みながら、私たちは、お番茶を飲みながら「しあわせのしろ」にまつわる即席の伝説などを話しました。
その当時は、私は、小樽の日本銀行を本物のお城だと思っていたものです。
その日本銀行のお城よりわが家の「しあわせのおしろ」は、大切で立派でした。
春のどろあそび

4月も中旬になると外の石炭小屋にすてきなことがはじまっています。私には、今でも春の匂いがわかります。雪の結晶が大きくなり、自分の目でもはっきりとその美しさが分かります。ざくざくになった雪の間をちょろちょろと水が流れていきます。春の匂いは、少しカビ臭く、どろ臭く、青臭く、そして新鮮なにおいです。そしてなんと石炭小屋にはかわいい子猫が何匹もいるのです。
ママが
「お母さんが心配するからつかまえちゃだめ」
って言ったってがまんなんてできません。毎年かならず一匹残らずつかまえようとして、ほとんど触れも出来ずに逃げられていました。そんなある日の午後、たまたま幼稚園がお休みでお兄ちゃんと外で春探しをしていました。
「あったよあったよ、ものすごく上等の泥が。」
さわりごごちがなめらかで、こんないいどろんこ見たことないほどです。ふたりで感触を楽しんでいるうちにお兄ちゃんが自分の顔にどろを塗りました。そのおっかしいことといったら負けてられません。
私もうでも顔も靴も脱いで・・・ふたりは、すっかり裸になって体中にどろを塗りつけ、気分は、すっかり未開の人種。手にて手に棒をもってエッホエッホと行進しました。なんて楽しんでしょう。私たちは、ベランダ越しにママを呼びました。
「 ママ! ママ! みてみて、すごくおもしろいよ。」
何度か叫ぶとやっとママがベランダを開けてくれました。
「おぉー。。。ぁぁぁ。。。二人ともパパが帰ってくるまで外にいなさい。。。」
そう言ったか言わないうちにバチンとベランダを閉めてしまいました。取り残された気分の私たちは、服を着るわけにもいかず、笑うわけにもいかず、お兄ちゃんは、とても困って、私は半分くらい困って、プルプルしながらたまにクスクスしました。
何分もたたないうちに、無口なパパが帰ってくると 泥んこのはだかんぼ二人を両脇にかかえ、バスルームに直行しました。
パパは、一言も叱りませんでした。
マリアーヌちゃん

わたしは、人形がすきでした。
ひとつかふたつのクリスマスにもらった大きな人形と小さな人形を持っていました。大きな方は、マリーちゃんといい母が人形キットを買って作ったもので60センチくらいあったと思います。顔がビニールで信じられないような大きな目をしていてピンクのネルのジャンプスーツに毛糸のぼっこ手袋をはめていました。マリーちゃんの頭は、私より大きかったと思います。小さいほうは、後から家にきたもので名前をマリアーヌちゃんといいます。金髪で指もちゃんとあるりかちゃん風の人形でした。すてきなドレスも着ていて、おまけに寝かせると目をつぶるおりこうさんです。マリアーヌちゃんは、私の自慢の人形でした。寝るときは、マリーちゃんといっしょでしたが、世の中で一番美人の人形はマリアーヌちゃんだと決めていました。
そんなある日、夕御飯を食べ、父といっしょにお風呂に入るとき、突然マリアーヌちゃんもお風呂に入れることを思いつきました。父も母もお風呂は遊ぶところじゃないと反対しましたが、とうとう私は、マリアーヌちゃんを持ち込みました。お風呂はいつもの三倍楽しく子供のアトムのシャンプーで彼女の髪を洗ってあげました。
そうしたら、石鹸の泡がマリアーヌちゃんの目に入ってなんと目がでんぐりがえって、白目をむいてしまったのです。父は、お風呂にいれたからだといいます。乾かしてもぜんぜんなおりません。髪の毛もぼさぼさになってしまいました。まったく見る影がなくなってしまったのに不思議と私にとっては、自慢の一番美人の人形でした。
私がかわいがっているのが分かってか両親は、マリアーヌちゃんを捨てなさいとは言いませんでした。もちろん、お兄ちゃんは、気味悪がっていましたがじきに慣れてしまったようです。
さて、雛祭りの季節が近づいて、幼稚園では立派な雛人形が飾られ、お雛さまのおいわいをすることになりました。その日は、みんな自分の人形やおもちゃをひとつだけ持ってきてもいいそうです。わたしは、何を持っていくかわくわくしました。お家では、新しいおとぎの国の本が届きました。お雛さまは、みんな寝静まった夜になるとパーティをするそうで、お雛さまたちが楽しそうにしている様子を写真で紹介していました。白い甘酒を飲んだり、五人囃子に鼓や太鼓をたたいてもらったり、三人官女が踊ったりとそれはそれはにぎやかで楽しそうでした。子供は、大抵ぬいぐるみが人形より好きだと思いますが、私はだんぜん人形派でした。しかもマンガチックなかわいいものよりちょっと不気味でもより人間に近いものが好きでした。そういう意味で、お雛さまはあこがれでした。でもこっそり触ってみると雛人形は随分硬いのでがっかりでした。
いよいよ明日は雛祭りの日です。幼稚園から帰ってずらりとおもちゃをならべ、どれにしようか迷っていました。ぞう、きりん、しまうま、らいおんなどのぬいぐるみとマリーちゃん、マリアーヌちゃん。どれにしようかな。自慢できるおもちゃはどれかな。私は、誰に相談することなく悩んだ末にやっぱり一番きれいなマリアーヌちゃんにしました。もちろん彼女はもう目がでんぐりかえっていたのにです。父は、ちょっとやめたほうがいいように言ったと思いますが、べつだん私の考えを変えるほどの説得力はなかったようで、明日の用意の中にすっかりマリアーヌちゃんは組み込まれました。
当日、雛祭りの歌をすっかり覚えたわたしたち兄弟は歌を歌いながらいつもなら行きたくない幼稚園へはりきって行ったのです。園へついて外套をぬぎ、私はマリアーヌちゃんをだいてお友達の集まる運動場の雛壇のところまでかけっこで行きました。「私のマリアーヌちゃん見て、見て、」ご自慢の人形をそれぞれ持ったお友達は、わっと集まって来ました。わたしは、もうすごく誇らしく、まさにじぶんのマリアーヌちゃんこそ一番と人形を差し出しました。
するとどうでしょう。
みんな集まったときと同じ速さで逃げていったのです。しかも、怖いだの、気持ち悪いだのおよそマリアーヌちゃんには失礼千万な言葉のおまけつきです。私は、すっかりいやになって、話のまだわかるだろう先生の来るのを待ちました。お友達も人形をもっていましたがなんだか赤ちゃんみたいな人形が多いし、だいたい名前だって、まーちゃんとかさゆりちゃんとかそんなものです。心の中ではそんな話の分からないお友達を不思議に思いました。
いよいよ先生がやって来ました。先生はおはようのあいさつをしながらみんなのおもちゃを見て回りました。私の番です。「ほら先生わたしの人形。マリアーヌちゃんっていうの。きれいでしょう。」先生は、マリアーヌちゃんをみてぎょっとしていました。先生は正直に目がでんぐりかえって怖いとか、髪がぼさぼさだとか言いました。そう言われるとそうかもしれない。
わたしの心は真っ暗です。すばらしい私の自慢でもあるマリアーヌちゃんがどんどんしぼんでいきました。そういえば、家に来たばかりの頃の人形とはちょっと違うかもしれない。しかも私がお風呂に入れるまでとは、全然違う。涙は出ませんでしたがぽっかり穴が空いたようでその日の楽しいはずのお祭りはうわのそらでした。菱餅もひなあられもおだんご以外の和菓子が苦手な私にとって、ちっともおいしくありませんでした。でも、両親が迎えに来るころには、マリアーヌちゃんにすっかり見切りをつけそれ以後の彼女の思い出はありません。今になって考えると少し不人情な気がしますが、お部屋の片付けを父といっしょにしたとき、いらないおもちゃ段ボール箱というのに投げ入れました。この片付けはとても心に残っている事で、ひとつひとつのおもちゃを吟味して三分の二くらいのものをいらないおもちゃ段ボールにいれたと思います。
本当のところ、いらないものはちょっぴりだったのに、父のお姉さんらしいおもちゃを選びましょうという言葉にいいふりをしたのです。後になって惜しくなったものもありましたが、マリアーヌちゃんのことではありませんでした。
小人たちはいづこ。。。。

幼稚園ではお遊戯会があって、みんなどんなお遊戯かどんな配役か そわそわしています。
私たちの組は、森の仲間の物語でした。森には、たくさんの動物がいてお祭りを計画するのですが準備がちゃくちゃくと進んでいるとき、仲間のうさぎが、病気になってしまい、熊がお祭りに行かないでうさぎの看病をかってでると次々に友達もうさぎといっしょにいることになり、要するに友達はいいなっていう話でした。私は、その熊の役に当てられすごくうれしかったのです。子供ながら一番先にこんないい思いつきができる熊をえらいと思っていたし、後からわたしもわたしもという動物よりずっと格好良く感じたからです。
練習は、小さな小さなレコードプレーヤーにソノシートのような薄いレコードを乗せて先生について台詞を覚えました。私は、自分の家のステレオには、小人の楽隊がすんでいると思っていたころでしたので、どうしてこんなちいさいプレーヤーから音が出るのか理解できませんでした。台詞を覚えさせながらも気はそぞろでプレーヤーのことばかり考えていました。小人の人数が少ないか、それとも家よりもっと小さい小人が住んでいるのか、悩みました。練習の最中でもそのことばかり先生に聞いていました。先生は、小人はいなくて、レコードのすじと針のことを説明してくれましたが、わたしは、ぜんぜん納得できません。いつか調べてみたいと思っていたのです。
私にとってとても不幸な日は、お遊戯もほぼ完成してからやってきました。
その日の休み時間、絶対さわってはいけないプレーヤーとレコードが運動場のステージの上に上がっているではありませんか。私は、いけないということすっかり忘れて、心行くままに機械を調べました。プレーヤーは赤くて、家のよりスイッチが少なくて例の針というものもあるのだかないのだかわからない。おまけに、レコードはつまらないすじすじが入っているだけです。私は、気がつくとレコードを爪でひっかいていました。なんだかわからないけど夢中になって調べていると、先生が飛んできました。
「レコードがめちゃくちゃじゃない!もうお遊戯できない。どうするの!」
私は、また、小人の話を持ち出しました。先生は、レコードのことですっかり気が動転していて私はまもなく釈放されたのです。
次の練習の日重大な発表がありました。
「みなさん、せっかく練習をかさねてだいぶ上手になりせんせいもほっとしていたところでしたが、このお遊戯はできなくなりました。panちゃんが大事なレコードをめちゃくちゃにしてしまったからです。先生は、レコード屋さんへいってみましたが、もう売っていませんでした。だから、このお遊戯はできません。panちゃん、みんなにもあやまりなさい。」
私は、あやまりました。みんな四つくらいのちびばかりだったので誰も私のことをせめませんでした。お気に入りの熊が出来なくなったことがざんねんでしたが、あまり悪いことをしたとは思ってなかったようです。
その頃、お兄ちゃんは、元気がありませんでした。お兄ちゃんたちのキリン組は、白雪姫をすることになっていて、当然自分が王子様の役だと思っていたら、お兄ちゃんはリスで、べつの子が王子様に選ばれたそうです。それですっかり落ち込んでいたのです。母は、色々元気付けていたようですが。。。
お姫様の役の女の子は、バレーを習っているそうで素敵なポーズをとれるらしいです。お兄ちゃんは、感心してよくそのことを話していました。私のお兄ちゃんは、小学校に上がるまでずっと将来は、白鳥の湖の王子様になりたかったらしいのでショックは、凡人には計り知れないものだったと思います。
私たちの組の先生は、気を取り直してかくれんぼと言う歌を踊ることに決めました。
”ヒヨコがね、お庭でぴょこぴょこかくれんぼ”というあの歌です。もうそこまで期日がせまってましたので先生はきびしく、覚えない子は、当日出さないと言って頑張りました。みんな、頑張ったかいがあってお遊戯会当日は、上手に踊れました。ただ、同じとしごろの違う組は、けっこう長い劇でびっくりしました。さるかにがっせんです。しかし、本番うすがさるを取り押さえるところで、うす1とうす2・が出番をめぐっておおげんかになり途中で幕が下ろされるというハプニングがありました。全部の出し物が終わると小さな参加賞をもらって両親と帰りました。
その後もしばらく、オルゴールをふくめて私の小人さがしは続きました。
おひめさまごっこ

幼稚園の自由時間は、きまっておひめさまごっこをしていました。
集団でやっと少しだけ遊べるようになり五人くらいのお友達でやっていました。今の幼稚園では、テレビアニメや戦隊系のまねをするそうですが、私たちには、絵本しかなくしたがって台本らしきものがなかったので、西洋東洋全部合わせたような漠然としたものでした。必ず主人公のおひめさまとおうじさまとお付きの小姓か侍女がいて、誰も男の子にはなりたがらなかったのでおうじさまがいることは、めったにありませんでした。
おひめさまになるには必ず髪の毛が長くなれけばならないというきまりと、びっくりするとパタリと倒れるその倒れ方が上手じゃなければいけません。
毎日おひめさまの倒れ方を練習したものです。見本は、森のなかにおきざりにされた白雪姫でした。私は、そのころ親の趣味やおひめさまごっこのために髪の毛をのばしていました。父がかわいい六角形のビニールがかかったボックスをくれました。このボックスには、たしか亜土ちゃんの絵がついていたはずで、幅の細いものから太いものまでいろいろな髪のリボンが入っていました。朝、母親に髪をとかしてもらって三つ編みにしてもらい毎日、あみだまの数を数えてもらっていました。何週間に一回は、その三つ編みの数が増えました。
二つに分けた三つ編みの先にリボンを結び、頭の上で交差させてピンで留めていました。
お友達みんながおひめさまの役になりたがっていました。
「おひめさまになれるのは、一番髪の長い人よ。」
私たちは、そういって髪をほどいては、みんな一歩もゆずらずに長さ比べをしていたのです。
お迎えに着た母が驚いて、長い髪は危ないので今度髪をほどいたら切ってしまうと言いました。私は、絶対にほどくまいとは、思ったもののおひめさま役のけんかになると気がついたら髪をほどいていました。約束だからといって母は、家に帰ると家庭用の散髪道具を用意して私を椅子に座らせました。私は、命の次に大切な髪だったので、おいおい泣きました。鏡の中には泣き顔のおかっぱ頭の私がいます。机の上には、今まで頭にくっついていたきれいな髪がならんでいました。母が、後始末をしている間その切った髪の毛をさわっていました。かたずけの終わった母は、その髪の毛でヘアーバンドを作ろうと思っていたらしいのですが気がつくと私がもうぐちゃぐちゃにしてしまっ
ていたそうです。
髪を切られてから私は、おひめさまごっこに参加しなくなりました。父にもらったボックスもなんだか虚しく思えました。ボックスの中には、まだしていないリボンがありました。いつものグログランのではない、薄いクリーム色の幅広のサテンリボンは、お姉さんみたいに後ろでひとつに結ぶとき用だったので寂しく感じました。
この後、また、髪をのばしてみますがリボンが結べるようになったときはもうボックスにお気に入りのリボンはありませんでした。
3才の 11月のこと。。。

毎日毎日がすんでいきました。相変わらず幼稚園には行きたくなかったけれど、お友達もなんとなく出来て好きな先生もいたのでしぶしぶ行っていました。たまに母が役所を休むときがあってそんな日は父が園へ行く前にパン屋さんでお菓子パンを買ってくれました。私は、クリームパンやあんパンが好きじゃなかったしその頃は今のようにケーキみたいなお菓子パンは売ってなかったのでいつもいつもメロンパンを買ってもらいました。今から思うと母は病院へ行っていたのでしょうか。
その時が来たのは、いつの季節か覚えていませんが白熱灯のついた暖かい夜だったと思います。父が、「ここに来なさい。」と呼びます。しかられるような事はしてないと思いましたが、お兄ちゃんと二人両親のところへ行くと母から重大な発表がありました。
「クリスマスがすんだら二人にすごいプレゼントがあります。」
お兄ちゃんと私はとりあえず大喜びして、それはピアノかそれとも新しいお人形かとか自分の欲しいものを聞きました。母はわたしたちが欲しいものをみんな聞きおわったあとで
「赤ちゃんがきます。」
と言いました。
私はびっくりするのと同時にわくわくしてやる気が一杯になりました。本物のお姉さんになれるのです。お兄ちゃんと手と手を取り合ってぐるぐる回りました。
そんなすばらしい発表があったのに私の園生活は続きます。そんなある日、月曜の朝会で私はおしっこをがまんして失敗してしまいました。しかられると思ったのに先生はとってもやさしくひよこ組の部屋で着替えさせてくれました。甘えるのが大好きだった私は次の日もわざとしてみました。その日も先生はやさしくしてくれました。そしてその次の日もわざとにしたのです。さあ、先生はわざとにしているとわかったらしく私は今までの分ぜんぶしかられることになったのです。そんなことをするのは赤ちゃんみたいで恥ずかしいことだとわかっていたのにきっとそれを乗り越えるほどやさしくしてもらいたかったか、寂しかったのではないかと思います。
母の出産が近づいて私は毎日赤ちゃんの大きさを聞くようになりました。家の中がさわがしくなりいとこのお姉さんがやって来て、母は、入院しました。いとこがご飯を作ってくれたり寝かしつけてくれたりしているうちに父が女の子が生まれたことを知らせました。そして私にこれからはお姉さんだからひとりでトイレへいったり遊んだあとかたずけをしなければならないことを話しました。私は本物のお姉さんになるのにやる気一杯でした。母がしばらく入院している間、幼稚園の先生をしているいとこのお姉さんは、母の三倍きびしくておやつもちょっぴりで、お兄ちゃんと一刻も早く母の帰りを待ちました。
赤ちゃんはなにもかも小さくてすごくかわいかったです。母と赤ちゃんが帰ってきても私は幼稚園へ行かされました。
四才の誕生日が近づいてきたある日、私はきゅうに勘違いをして四つになったら学校に行けると思いました。誕生日の前の日先生たちに「四つになると学校へ行かなければならないのであしたからもう幼稚園にはきません。」と言ってまわりました。先生は六才だと言います。でも私はきっぱり宣言しました。母が迎えにきてそのことを確かめると四才ではなく六才だというではありませんか。私は、それを聞いてショックをうけました。次の日もうこないと言ったのに幼稚園へ行くと案の定先生にひやかされました。私は、そんな先生達が大嫌いでした。そのうちにお兄ちゃんが小学校へ上がるのといっしょにわたしもここをやめることになりました。お兄ちゃんは、卒園式の合奏で木琴をたたくことになり毎日一番こわい先生のもとで特訓されていました。まちがうと木琴のバチでコツンとされるそうです。わたしはそんなこととても耐えられないのでいっしょに卒園して良かったと思います。堪え性のない性格なのであと二年もいたらひねくれ者になっていたでしょう。
春になり、卒園式の合奏もとても上手にできてお兄ちゃんはこわい先生に誉められて鼻高々でした。
クリスマスのケーキ

季節は、冬になり寒い日が続きます。ももひきをはいてタイツをはくのは、一苦労です。
いつもの季節よりずっと忙しい冬に一年で一番すごい行事があるのです。幼稚園でもその準備がすすんでいました。クリスマスが来るのです。サンタクロースのおじいさんがトナカイのそりにのってかわいい子供たちにプレゼントを配るそうです。そんなある日母が私たちに聞きました。
「サンタクロースに欲しいものをいってごらん。」
私は、びっくりしました。だってサンタに言うならわかるけど母に言ってどうするのでしょう。するとなんと母は、サンタクロースの知り合いで、家の子供が何を欲しがっているのか伝える係になっているそうです。私たちは、欲しいものを一杯言いました。そうすると母からサンタについての続きの話がありました。
「サンタクロースは、一年間良い子だった子供にだけプレゼントをくれて、悪い子だった子供には、その悪かった数だけ笞でたたくのよ。」
私は、ちょっとばかりびくっとしました。誉められることは、ちょっぴりでいつも幼稚園では、しかられていたからです。お友達にそのことを話してもだれも知らないことでしたので両親にクギをさされるたびに少し思い出して少しあわてるくらいでした。
クリスマスイブの前の日は、幼稚園でもお祝いをするそうでいつもよりもおしゃれして出掛けました。
その日はお母さんや中にはお父さんも来ていて、私も母が来ていてうきうきしていました。長々と続く退屈な先生のお話もやっと終わりクリスマスツリーをかこんで歌を歌いました。歌いおわると一番いばっている先生がサンタクロースの登場を告げました。私たちは、運動場の床に行儀良く座ります。小さい子供は前の列です。楽しげなメロディーとともにサンタは、登場しました。ぱっと見た瞬間わたしは、愕然としたのです。先生がサンタクロースと言ったのは、それはそれは大きな見たこともないバケモノでした。顔中毛だらけでカマスノオジサンのように袋を背負っていて、しかも近づいてくるのです。私は、恐ろしくて大泣きしました。私につられて小さい子供達は大泣きしたので、そのバケモノはそうそうに引き上げました。
私たちは、まだひくひくしながらも怖いのがいなくなったのでプレゼントをもらいました。先生たちは、私たちが怖がった訳がわからないようで、泣くのは赤ちゃんと同じだと言いました。でも母は、よくわかってくれましたので少し安心しました。
幼稚園のクリスマスプレゼントはデコレーションケーキでした。ケーキは、持つのがむずかしいからママに渡しなさいと言われました。お兄ちゃんは素直に母に持ってもらいましたが、私は、私が貰ったものだからお家まで絶対持つと言って聞きませんでした。母は、しかたなくケーキは、ぐらぐらさせないで持たなければいけないと言いますので私は、はりきって最大の注意をはらってケーキを運んだのです。
父の車に乗ってお家へ帰ってきました。ストーブを焚いて、お湯を沸かして、紅茶をいれいよいよケーキの登場です。お兄ちゃんのケーキは、ピンクのばらと白いばらがついていてかわいくっておいしそうでした。そして私のを開けるとそこにはお兄ちゃんのケーキとは似ても似付かないぐちゃぐちゃのケーキがありました。ばらも形が崩れてぜんぜんわかりません。
「ママの言うことを聞かなかったからこうなったのよ。」
わたしは、がっかりしました。ぐちゃぐちゃのケーキは捨てられることになったのです。これからは、二度とケーキを運ぶまいと心に決めました。
24日は、クリスマスイブです。夜中に教会へ行くのでサンドイッチのような簡単な夕飯を済ますとお兄ちゃんと私は、両親の寝室で寝かされました。父も母もクリスマスの準備で忙しいので呼ばれるまでは出てきてはいけないのです。本当は、ちゃんと寝なければいけないのにわくわくして眠れません。それにお兄ちゃんがおかしい話をいっぱいするのでさわいで父にしかられたくらいです。
長いときがたって、私たちにやっと教会へいく用意の順番が廻ってきました。お兄ちゃんは父のようにネクタイをして私も新しいドレスを着ました。教会から帰るとサンタがもう来ているはずです。家には暖炉がないのでどこからサンタが入るのか少し心配でしたが、なんとか出掛けることになりました。ミサに行く前は、静かにしていなければならないのでなるべく騒ぐのはやめました。
教会では、小さい子供は前の方に座ることになっています。私も母と離れて座りました。ミサでは、花籠という小さい女の子の役があって献金を集める役なのですが、私にとっては、憧れの仕事でした。
それも、いつもの日曜日ではなく、こんなクリスマスに出来たらこんな素敵なことはないでしょう。しかし、私には廻ってきませんでした。
ミサが終わり皆ニコニコしておめでとうを言い合ってます。それに伝導館では、夜食の準備がすっかりできていて乾杯をしているおじさんもいました。でも、うちの家族はそれには参加せず神父さまに挨拶をすませるとすぐに引き上げました。私は、くいしんぼうだったので教会のお夜食に少しみれんがありましたが、お兄ちゃんは、クリスマスプレゼントで頭が一杯で一秒でも早く家へ帰りたがっていました。
家にやっとつきました。果してサンタクロースは来ているでしょうか。私たちは、オーバーコートを着たままであわてて二階の自分の部屋へあがっていきました。
ベッドの布団が大きくもあがっています。布団をはぐるときれいなリボンが掛かったプレゼントが入っていました。
「サンタクロースがきたよ!」
「お兄ちゃんのところにもきたよ!」
プレゼントを持って茶の間に集まりました。両親にも見せました。私には、かわいいミルクをのむお人形が入っていました。本物の赤ちゃんよりほんのちょっと小さいだけでレースが一杯ついた服をきています。おまけに哺乳瓶も二つついていてミルクを飲ませることも出来ます。おしっこもたれるのです。おしめもおむつカバーもそろっていました。お兄ちゃんのは、立派なドイツ製の鉄道セットです。さっそく父とレールを組み立てスイッチをいれると走りだしました。少し走ると汽笛をならし煙突から煙をだします。おまけに石炭の匂いもします。私たちは、幸福でした。
25日は、いよいよクリスマスです。一年で一番楽しい日です。
クリスマスツリーの下に昨日のプレゼントを並べたり一日中歌を歌ってごちそうをたべます。クルトン入りのポタージュスープやえびのグラタンやパイナップルのかんづめやうさぎりんご、芽キャベツの付いたローストポークもあります。私は、あまり好きじゃなかったけど母特製のたまねぎとにんじんの暖かいサラダもありました。味付けには、大好きなバターやチーズがたくさん使われていました。
そして、デザートのケーキは誰の誕生日のものより大きいデコレーションです。
わたしは、どうしてクリスマスのケーキが大きいのか不思議でした。
「どうしてクリスマスのケーキは大きいの?」
父も母もにこにこしながらこう答えたのです。
「それはね。イエズスさまのお誕生日だからだよ。」
私は、この言葉にとても納得しました。
お誕生日の時は、ケーキのばらは誕生日の人のものですが、クリスマスケーキのばらは、一番小さい人のものでした。その頃は、まだ妹がいなかったので私がもらいました。
パーティーは寝る時間ぎりぎりまで続きクリスマスにまつわる話を聞いたり、絵本を読んでもらったりの大満足の一日は暮れていったのでした。
赤ちゃん人形のこと

クリスマスのプレゼントで私は、外国製の立派なミルクのみ人形をもらいました。
私のうちでは、おもちゃはクリスマスぐらいしか貰わなかったので両親はクリスマスのプレゼントには、ひとしおの思い入れとお金を使っていたようです。私のその人形は青い目の金髪で哺乳瓶に水をいれて飲ませるとおしっこをたれる本格派でした。
これをもらった日から、私はすっかりお母さん気分でこの人形の世話をしたのです。着替えをさせたり、子守歌を歌ってあげたり、ミルクを飲ませたり、洗濯をしたりと楽しいくらいの忙しさでした。でも、赤ちゃんと言うものを知らない私は、きびしい親でもあったのです。
朝、一番に目をさますと両親の寝室へいくのが私の習慣でした。運が悪いと茶の間へ行かされますが、たいていは布団に入れてくれました。母の布団は暖かさがちょうどいいし、いい香りがするので大好きでした。父の布団はたばこくさく、あっつかったのですが絶対に入れてもらえました。
私は、たまにおねしょをすることがありました。それは父の布団に入れてもらった朝のことです。父の布団でぬくぬくともう一眠りした私が目をさますと、なんと失敗しているじゃありませんか。
私は、そっと抜け出してパジャマをはいたまま乾かすと素知らぬ顔をすることに決めたのです。いつものとおりの朝がはじまって行きますが、なかなか父が起きてきません。そこで私は、先手を打って母に父がおねしょしたと言いました。私は、墓穴を掘っていたのです。母には、すごくしかられましたが、不思議と父にはしかられませんでした。
おしっこをたれることがいけないことだと知っていた私は、ミルクのみ人形がなぜ平気でおしっこをたれるのか理解できません。何度言い聞かせてもわかってはくれないようです。私は、奥の手を使うことにしました。当時、私たち子供は、悪いことをすると二階の物置へとじこめられました。ものすごい悪いことをすると、その奥の暗い物干場へいれられました。
「今度おしっこをたれたら物置にいれますからね。」
私は、こうしてミルクをあげたら絶対におしっこをしてしまう人形に無理なことを言いました。私にとって物置はとても怖いことだったので、これでもう大丈夫かと思ってみれば人形はぜんぜん言うことをきかないではありませんか。人形をしかりつけながら階段を上り物置に閉じ込めてやったのです。
ぷりぷりしながら別の遊びをすることにして、しばらく様子をみました。お人形とはこれの繰り返しでだんだん私はがまんできなくなりました。そして、こわいこわい物干場へとうとう閉じ込めることにしたのです。そして、それっきりミルクのみ人形はいなくなりました。私も一生懸命捜したつもりですがみつかりませんでした。付けた名前も思い出せないほどだから私のもとにいたのはほんの少しの間だったようです。
後に何年かして、母が物干場のすみのほうに転がっているのを見つけたそうです。
あんなにきれいな赤ちゃんだったのに顔はすっかりよごれはて、服もねずみがかじっていて、ただ目だけが青くうったえていたそうです。
ナカムラアリ
版画家・造形作家・詩人
Jewel Box
2012年12月1日発行
2016年7月25日再版
発行所 sakura studio